okite910nete1820’s blog

歴史が嫌いだった自分が学び直して、簡単な歴史の地図を作ってみます。

立憲政治の始まり 【20/30】

今日は当ブログの本題、作成中の年表地図の20ページ目

 

”立憲政治の始まり

 

になります。

歴史年表地図もいよいよ全体の2/3までやって来てました!。

残すところ1/3になってしまいましたね。少しずつ一歩ずつゴールは近づいて来ています!

今回も勿論、あくまで歴史初心者的な目線で見ていきますのでご了承ください😅。

内容途中に誤字や間違いなども,きっと見落としや勘違いなどもあるかもしれませんが、あくまで自家用として作成しているので、その辺はご勘弁。

先のパート、明治維新で明治政府は急激に近代化を推し進めて来ました。

様々な決まり事を作り、欧米列強の進んだ統治を模倣し取り入れ、その中で、様々な物が急激に様変わりしました。

 

okite910nete1820.hatenablog.com

 

その中で施行された

は諸藩の力を急激に弱体化させ、さらに士族(武士)の特権的な地位を奪い去ることとなりました。

 

そこで新政府の ”武闘派” が打ち出したのが、 ”国内” で戦争をするのではなく、

”海外” の国に赴き、戦をする。的な 征韓論” を打ち出しました。

 

この征韓論を打ち出したのは主に、岩倉使節団が世界を外遊中に日本の舵取りを任されていた ”留守政府” の方達。

 

西郷隆盛板垣退助江藤新平etc などでした。

 

逆に岩倉使節団として外遊してきた者達は、あまりにも海外の文化レベルの格差に驚き、”今は外に向かって戦争をしている時では無い!!”  国内の力を付けなければ!

的な ”内治優先”  ”富国強兵” 論的な政策を推し進めようとしました。

 

岩倉具視大久保利通伊藤博文木戸孝允etcなどです。

 

結果的にこの征韓論は、新政府内部を内側から破壊をし、空中分解をさせる事となりました。

 

最終的に征韓論が新政府を去ることとなり、これらの事が、後の近代最後の戦争

 

西南戦争” 自由民権運動へと繋がって行く事となりました。

 

この新政府を離れた側に、後に新政府と言論で戦う事となる板垣退助や、西南戦争の主人公となる西郷隆盛などがいたのですね。

 

この時期の複雑な情勢や人間関係、意思の違いなど、とても解りやすく丸竹さんが纏めていてくれます。初めの頃は丸竹さんの動画は難しすぎて、何を言ってるのか分からなかったのですが、一定の時期を過ぎた頃から、内容がスラスラと理解出来るようになったときは、とても嬉しく感じました😁。

 


www.youtube.com

 

この時代のザックリとした流れと、一番の重要な事は何か?

 

この時代、ザックリな流れで行くと

一番重要な事、流れは、

 

うーん迷いますねぇ今回は西南戦争かな?。

 

近代史最後の内戦。明治初期までの時代、人を殺めることは肯定的な時代でしたが、この戦争を最後に日本は 戦争により政治を変えるのでは無く、議論により政治を変えて行くと言う近代化した議会を設置する事に紛争することとなりました。

 

つまり、太古の昔より繰り広げられてきた意見の対立する者との ”戦争” ”暴力的な解決” は表向きには禁止され、言葉により、討論により、政治運営を行って行く事となる、歴史的転換点になる大きな戦争だったのです。

さて、こちらが立憲政治の始まりの標準年表になります 

赤色の文字戦争や争いを表すパートは、西南戦争を最後に、日本国内、国民同士での内戦と言う目に見える形での武力による衝突はひとまず終わりました。

西南戦争後は、青色の文字のパート ”政治” のパートが大部分を占める様になって来たのは年表を見れば一目瞭然でしょう。

西南戦争で勝利した新政府軍。

天皇を中心とは表向きにはなっていたのでしょうが、実際に政治の実権を握ったのは、明治初期にハバを利かせた江戸時代で言う ”諸藩” の中心人物。

ゆえに、西南戦争後しばらくは、 ”藩” のパワーバランスの秩序による

 

””藩閥政治””

 

が台頭してゆく事となります。

 

有名な藩閥は、 薩摩、 長州 、 土佐 、 肥前

 

薩 長 土 肥

 

その中でも 薩摩・長州は群を抜いていたのではないでしょうか?。

 

19代総理大臣の 原敬 までのほぼ大部分を薩摩・長州が総理大臣の座を掌握しました。言い換えれば天皇中心の国家運営とは建前であって、実際の政権運営は現在同様

”議会” が行っていたようなもの。

 

つまりこの時代の薩摩と長州は、国の運営に対し、多大な影響力を持っていたと言えるのでしょうね。

 

こちらが歴史年表地図になります。

(題名が間違ってマスね😲ゴメンナサイ💦)

 

 

こちらはユーチューブの動画です。

こちらはユーチューブの制作の勉強を兼ねてやっているので完成度は低いです。
ただ形になっているだけなので申し訳ないです😫

 


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1.民撰議院設立の建白書からの

自分も始めて聞く言葉でした。

ザックリとした言い方ですが、この時の政治の中心は立憲君主制(国の運営の主導権が君主)にあり、かつ藩閥政治が横行している時代でした。

 

この事に異を唱えた板垣退助らが、政治の中心を国民となる、国民主権(国の運営の主導権が国民)を求め、政府に提出した物が民撰議院設立の建白書になるのです。

 

民撰議院設立の建白書が何かという、国民皆で議論をして政治を行う場 ””国会””

を作りましょうと言う物でした。

 

この事は、後に、自由民権運動の始まりとされます。

 

undefined       有名な光景画ですよね

引用:Wikipedia

 

    

2.西南戦争からの

武力では無く、 ””言論”” で政府と戦おうとした板垣退助‥‥。

先の征韓論での意見の対立により、故郷に帰郷していた西郷隆盛。彼自身はきっと政府とは争いたくは無かったのだと思います‥‥。その辺りの深い話は、初心者である自分が語るには、まだまだ学びが足りていないと認識しています。

色々な方面での立場の違いや、信念の違い、ぶつかり合い。その中で西郷さんが選んだ道なのでしょう。

自分で選んだと言うよりは、そうなる ”運命” ”宿命” だったのかも知れませんよね‥‥。

 

廃刀令、徴兵令で士族の ”職” と ”特権” を奪われた武士達。そのフラストレーションは最終的に ””武力”” により情勢を打開しようという、今までの歴史で繰り返されてきた ””力 による 変革” と言う所に向かって行きました‥‥。

 

その結果が西南戦争でした。

 

最初は小さな渦も、次第に大きくなり、その中で西郷隆盛もその渦に巻き込まれ、同郷である人物、大久保利通と最終的に戦うこととなり、地元薩摩の城山で、西郷隆盛大久保利通率いる新政府軍に敗れ、自害をする事と成り、西南戦争は決着が付く事となりました‥‥。

undefined   鹿児島城山での最終決戦

引用:Wikipedia

 

そして翌年、新政府の政治に納得行かない不平士族により、大久保利通暗殺される事になります‥‥。

 

ドラマティックな結末ですよね‥‥。

 

この先もズッと、それぞれの欲や、不平、不満、大抵が ”負” の感情が、次々に新たな不幸で、理不尽な歴史を作り出して行きます‥‥。

本当に、本当に、この人間の欲の深さには改まり感心させられます。現代においても、現在進行形で繰り返し続け、今なおそして未来永劫続いて行くのでしょね。

 

この西南戦争が士族(武士)階級の没落を決定付け、荘園のボディーガードより始まり、その後天下を納めた武士が、最後は消滅してしまう‥‥。

本当に平家物語なんですね。歴史って‥。盛者必衰。どんなに力を持つ者も、そしてその手中に収めた権力を全力で守ろうと必死になっても‥‥それは ””絶対”” に続かないと言う事を、一番大きく学んだと思います。

 

この西南戦争を境に、日本人同士が武器を持って争うと言う事は、表向きには無くなりました。西南戦争は、日本の歴史での、”最後の内戦” となったのですね。

 

3.内閣制度設立からの

伊藤博文憲法調査の為に時の欧州列強国であったドイツに派遣され、君主制の強い憲法を手本に、憲法草案を作成しました。

その後内閣制が成立し、伊藤博文が初代内閣総理大臣(首相)となりました。

内閣制度の始まりです!。

現在の政治の原型の様な物が出来て来たのがこの時代なのですね。

 

4.大日本帝国憲法発布みたいな感じでは無いでしょうか?。

その後、大日本帝国憲法が発布されることとなりました。

ドイツの立憲君主制を元に作られた憲法である事。

似たような憲法で、日本国憲法があると思いますが、勿論、自分はこの違いなど分かるはずもありませんでした。学びの中で

ザックリ区別すると、

 

大日本国帝国憲法は  主権は→天皇

 

日本国憲法は     主権は→国民

 

この様な大きな違いがあったのですね‥‥。

 

この歳になり、歴史を学び、何が面白いのか??。一番に感じるのが、断片的に、一つの単語や言葉としてしか意識していなかった事柄が、全部繋がって行く。その時は”何でだろう?” と疑問にしか思ってなかったような事が、点では無く、一本の線となって行く。そこに面白さを今更ですが感じました。

学生時代はと言うと、

「こんな事覚えて何になるの??。世の中に出ても使う事無くね??。」

などと考え、様々の物に意識を向けると言う事に面倒臭がり、自主的に蓋をして、逃げて来ました。

そんな事が

「面白いなぁ~」 っと思う歳がまさか来るとはですね(笑)。

息子君にも相応のアドバイス的な物言いはしているのですが、まぁ自分もそうであったように、馬の耳に念仏状態‥‥全く同じ状態のようです。ポケモンの技出しの

効果はいま一つの様だ‥‥‥‥💦。」

状態ですよ(笑)。まぁ自分位の歳になった時に気が付くのでしょうね。もっと学んだり、勉強しておけばよかったって。

まぁこんな小さなコミュニティの中でさえ、過去の歴史に学ばないと言う事が証明できているのですから、世の中など尚、学ぶこと無く、同じことを繰り返し、そして同じような歴史が繰り返されて行くのでしょうね。

何か風な事言ってますが、2年前は建武の新政すら知らなかったんですからね(笑)。

 

 

 

さて、次の章は 日清・日露戦争 になります。

 

 内政では、立憲国家としての基盤が着々と構築されて行く一方では、外交政策としては、欧米列強の真似事と言うべく、帝国主義を目指し、近隣国へと支配の手を伸ばして行く事となる日本。とりわけは朝鮮半島の支配権。これを巡って、次々に日清・日露戦争へと日本は進んで行くこととなります。

 

 ここから先は戦争の歴史。国内の戦争では無く、世界を相手にしての戦争。本当に人間の欲の深さは、何時の時代になっても変わらないことを考えさせられると思いますす。現代に至っても、その ”欲” で様々な争いや、戦争が繰り返されているのですからねぇ‥‥‥。

 

 

最後まで読んで頂いた方、感謝します!。ではまたです🖐🖐🖐。